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【OKIURA】おいたち(母との思い出)

2017.06.01

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沖浦奨のおいたち(母との思い出)

神戸市北区で生まれたのは、1977年3月5日11時4分。

神戸市北区は神戸でも裏六甲と言われているぐらい寒くて冬には雪が降る所。
雪がしんしんと降るなか、産声を上げたそうです。
大きくなってからも寒さにはめっぽう強いのも冬生まれだからなのかなと思っています。

3250gだったけど、母乳をあまり飲まず、
母は食事をいろいろ工夫して食べさそうとしたようだったけど、
ほんとに食べないので、ずっと小さかった。

父方の両親が元々は保険外交員で昔は、裕福だったらしいのですが、
祖父が保証人とか何やらで、資産が一切なくなり、
父は子供のころから、苦労をして生活をしていたそうです。

だから、もの心ついたときから、思っていました。
うちは、『貧乏』なんだと。
(ただの母の口癖だった。・・・ことは大人になってから分かりましたが。)

だから、あんまり欲というのがなかった。
こんなことがしたいなんてなかったな。人並みで十分だった。
だから、今でも何がほしい?何が食べたい?と言われても、
とっさに出てこないんです。

2,3歳ぐらいの時は、
親戚みんなで一日どこかに出かけようとしようとしても、
絶対に行かないといって、朝から夜まで一人で家にいたらしい。

大勢でいるよりも一人が好きだった。

あとは、とにかく物を分解するのが好きだったらしい。
かんしゃくを起こして壊すのではなく、パーツを一つひとつに丁寧に分けていた。
家の扇風機とかラジカセとか。
分解するだけ分解して、後は組み立てることはしなかったので、
母は僕のことを『ハカイダー(破壊する人?)』と言っていたらしい。

小学生の時は、
学校の先生から『幸せ君』と言われるぐらい、
いつでもどこでもニコニコしていました。

おとなしく、誰に対しても愛想を振りまくような子供でした。

でも得意なことと言えることは、走ること。

父がマラソンをやっていた影響で、
当たり前のように週末はいつも父とランニングをしていました。
野球もしないしサッカーも勉強もできなかったけど、走るのだけは得意でした。

小学校で唯一自分の存在をアピールできたのは、
真冬のマラソン大会のみ。
8割ぐらいの人が嫌がる中、上位に入賞して目立てるイベントでした。

(続く)

沖浦奨おいたち(父との思い出)
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